旅順を訪問して

今年初めての投稿です。今年もできる限り情報発信をしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

1月14日、私は今年初めての海外出張をすべく、羽田空港にいた。目的地は中国・大連。昨年もこのタイミングで大連を訪問したが、目的は現地法人であるSankosha Dalianの新年度方針発表会に参加するためである。中国は昨年から景気減速が明らかになってきている。完全にデフレに入ったと感じるほどだ。これから中国の景気はどのようになっていくのか、そして国民のクリーニング業への関心はどのくらい高まっていくのか、気になるところはたくさんある。

まずは業界の話だけしておく。中国のクリーニング業はまだまだ脆弱といえる。帰国日の午前中にひとつのクリーニング店を訪問した。私自身は初めての訪問であるが、このクリーニング店は日系の業務経験があるクリーニング店である。大連といえば親日都市として有名である。日本からも数多くの企業がここに拠点を作っていたものであるが、現在はその数が激減している。なぜならば経済の中心が上海から南(広州、深圳など)に移っているからだ。インターネットビジネスが活発になっているのもクリーニング業がなかなか発展しない一つの原因だろう。人々が外を歩こうとしないのでは洋服商売はなかなか難しい。そして素材の変化はクリーニングの歴史と関係なく同じタイミングで世界を席巻している。現在のトレンドはダウンだ。中国の人々はダウンを寒さ対策の機能として着ている。韓国と一緒だ。一昔であればコートを活用していただろうが、現在それを着ている人は極めて少ない。こういうことがクリーニング業の衰退を作っている。中国はこれから発展していくステージにあるにもかかわらずすでに衰退の条件を整えようとしているのだから悲しい話である。それでもトレンド入りしているダウンのクリーニングを積極的に取り入れたりしているので今後が楽しみと言えば楽しみである。

工業地区にある三愛クリーニング店。現地の老舗店である。
店舗はとてもスタイリッシュ。スニーカークリーニング需要がかなりありそう。

 

さて、今回はクリーニングの話よりも歴史の話である。ここからは興味のある人だけ読み続けてもらいたい。私は大学受験で日本史を専攻していたので年号や出来事はよく暗記したものだ。そこで大連という町をみつめ直してみると近くに旅順という場所がある。日露戦争(1904〜1905)では地政学的にもとても重要な場所であり、激戦地となった場所である。私は旅で楽しむことと言えばワインかゴルフなのだが、その土地の歴史に触れることも大好きである。ただ、戦争という歴史に触れるといつも悲しい気持ちになる。つくづく私はこの時代の日本に生まれてきて良かった、と感じる。日本には横須賀という場所にこの日露戦争で旗艦を務めた戦艦三笠が今でも展示されている。当時の最強海軍であるロシア・バルチック艦隊を撃破した戦艦として有名である。日露戦争といえばロシアとの海戦ばかりが取り上げられているが、この旅順という場所はとても重要な場所として捉えられていた。現地法人Sankosha Dalianで働いている李さんは昔、人民軍として従事していたこともあり、戦争の跡を案内してくれる、というので私はお世話になることとした。

東鶏冠山の入口。山全体が保存されている。

 

最初につれて行ってもらったところは「東鶏冠山」という山の中にある歴史記念館である。中国は日清戦争(1894〜1895)で日本に敗れてから日本だけでなくフランス、ドイツ、ロシアにも干渉を受けることとなり、この旅順はロシアに事実上支配されていた場所である。この山はロシア陸軍の司令部、宿舎、壕などが作られており、その当時の戦争の爪痕がそのまま残されている場所でもあった。この山に要塞が作られたのは1900年だそうで、当時はその建設に多くの中国人が強制的に労働させられていた、という記述も残っている。私が訪問したときは氷点下5度、ちょっと外を歩いているだけでもすぐに凍えてしまうほどの寒さなのに当時は朝から晩まで要塞の建設に従事させられたのであるから気の毒としか言いようがない。

社員の李さん。当時の人民解放軍が使っていた銃がそのままおいてある。
これも当時の機関銃。そのままおいてあるので生々しい。

 

とても強固なコンクリートで建設されていたのだからこれを突破するのに相当な力が必要だっただろう。結果として2.3トンの爆薬を使って壊したとの記述があったが、その爆薬量がどのくらいに相当するのか、検討もつかない。ただ、当時はここでどれだけの人々が命を落としていったのか、を考えると心が重たくなる。日本もロシアもそれぞれ勝つか負けるか、の戦争をしていたのだからそれは仕方がない。

当時のロシア軍の要塞。日本軍が2.3トン爆弾で粉砕した穴跡がそのまま残っている。

 

しかし、すでに奴隷化されていた中国人がこの双方の戦争の犠牲になっていたのか、と思うとこちらの方がもっと心が重たくなる。この記念館には1894年の日清戦争から1945年の第二次世界大戦終了までのおおよそ50年間で多くの中国人がその戦争と植民地扱いされたことに対する不幸な時代として数多くの写真や遺品が展示されていた。とても不幸な時代と不幸な場所だったのだろう。

山の上に建設された記念館。まだできて半年らしい。
展示物の一部。これは日露戦争時の写真が生々しく展示されている。

 

次に旅順口が一望できる「白玉山」を訪問した。ここには「白玉山塔」という日本が戦死した兵たちを慰霊するための塔がある。時の大将、乃木希典と東郷平八郎が建設を進言したと言われている。この塔から旅順の港が一望できる。港の先がとても狭くなっており、当時日本海軍がロシア海軍の出港を阻止するために軍艦を3隻並べて沈没させ、行く手を阻む戦略をとったとされる記述がある。結果的にそれは成功しなかったらしいが、軍港としてもとても重要な拠点だったことがよく分かる。現在は中国海軍が軍港として使っている。

白玉山の入口。ここも特別遺産として指定されている。
白玉山塔。日本が日露戦争後に建設したとされている。
山の上から一望できる旅順口。あの細いところが入口で海戦のキーポイントだったとか。
2020年7月に家族で訪問した横須賀の戦艦三笠。まだ立派な保存状態になっている。

 

私が訪問したときはとても寒かったが平和である。記念館で当時の写真を見ていると日本軍が中国人に悪いことをしていたこともあったのだろう、と感じてしまう。当時の人々は誰もが正気を失っていた。人を殺すことなど平気だっただろう。人が死んでいるのを見て何も感じない人たちばかりだった。現在はどうだろう?人が通りで倒れているだけでも大事になるだろう。すべての人が間違いなく介抱してくれることだろう。私はそういう時代に生まれてきて良かったと思う。こんな時代に生きているからこそ、様々な国に商売を通じて旅をすることができている。しかし、こんな時代でも戦争に苦しんでいる人々がいる。それぞれ戦争を起こす理由はあるのだろうが戦争をしてもその戦地に住んでいる人々が苦しむのみである。こんな歴史の地を見つめながら私は戦争のない世の中になることを心より願うばかりである。